「鏡の向こうの自分」

短編小説
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「鏡の向こうの自分」

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「鏡の向こうの自分」

秋の深まりに従い、葉が色づき始めた静かな散歩道を、名取は足を運んでいた。日差しは柔らかく、風が軽やかに流れ、そのすべてが彼を穏やかな気持ちにさせてくれる。この道は彼が子供の頃から慣れ親しんだ場所で、特に神社の鳥居は彼の心に深い印象を残していた。

名取が歩くと、さくさくと落ち葉が足元で音を立てる。ゆっくりとしたペースで歩を進め、やがて目の前に現れたのは古びた神社と、その赤い鳥居だった。静寂の中で鳥居の朱色が際立ち、神聖な雰囲気が漂っているように感じられた。

「ここに来るのも久しぶりだな」と彼はつぶやき、鳥居をくぐることにした。内心、いまだに神社に特別な思いを抱いていた。子供の頃、仲間と共に神社の境内で遊んだこと、そして母に連れられて初詣をしたあの記憶。過去の美しい瞬間が一つずつ思い起こされてくる。

鳥居をくぐった先には、長い石階段が続いていた。名取はその階段を上ると、境内に広がる大きな杉の木が立っているのを見た。木々の間から日差しが差し込み、地面にはその光が小さな斑点を作り出している。彼は思わずその場所に立ち尽くし、目を閉じてその静けさに浸った。

突然、木々の間で一瞬何かが動いた気がして目を開けた。名取は目を凝らし、そこに何かいるのではないかと警戒した。その瞬間、彼の視界の端に、何か光るものが映り込んだ。近づいてみると、それは大きな鏡だった。辺りには誰もおらず、それがなぜここにあるのかが不思議だった。

鏡の表面は透明感を持ち、周囲を反射している。しかし、よく見るとその中に人影が映り込んでいるのに気がついた。まるで別の世界から見つめている誰かがいるようで、名取は思わず立ちすくんだ。その影は女性のようで、柔らかな表情を浮かべている。

「あなたは誰?」彼は口を開くが、鏡の中の人影は無言のまま、静かに名取を見つめている。彼の心は不安と興味に揺れ動いていた。何故この鏡がここにあるのか、そしてこの影は一体何を伝えようとしているのか。彼はどうすることもできず、ただ自分の心の内を映し出すようなこの影に視線を注ぎ続けた。

「昔、私はあなたと同じ場所を歩いていたの」と、突然影が言った。それは名取の心の奥に響くような声で、彼の過去をなぞるような言葉だった。「この神社が、私の思い出の中に息づいているから、あなたもここにいるのね。」

名取は驚き、夢を見ているのかと思った。しかし、影の声に不思議な親しみを感じ、その言葉に耳を傾けた。「私はこの鏡の向こうにいる。あなたが何を考え、何を感じているのかをずっと見ていたわ。」

彼はその言葉の意味を解こうとした。「あなたは…誰なの?」と問いかけた。影は少し微笑むと、その存在が名取の記憶をさらさらと甦らせた。

「私はあなたが忘れた自分。あの日あなたが抱えていた不安や期待、全てを知っているのよ。」影の言葉に名取は、胸が締め付けられる思いがした。幼少期に感じた純粋な気持ち、あの頃の無邪気さ。そして、成長するにつれて失ってしまった多くのもの。

名取の目頭が熱くなった。恐れと優しさが入り混じる感情が彼の中で渦巻いていた。「私は、もうその頃の自分には戻れないの?」

影は優しく微笑みかけた。「時間は戻せないけれど、あなたの心の中にはいつでもその自分が息づいている。あなた自身を忘れないで。だから、どうか進んでいって。」

その言葉は名取の心に響き、彼は何かが解放される感覚を覚えた。失ったものを悔いるのではなく、今を大切にして生きることの大切さに気づいた。名取は深く息を吸い込み、未来を見据える決意を固めた。

やがて、鏡の中の人影はかすかに消えそうになり、名取はその姿を見失う前に「ありがとう」とつぶやいた。すると、影は「また会いましょう」と優しく微笑みかけ、彼にお別れを告げた。

名取はその瞬間、心の中に花が咲くような感覚を覚えた。彼は神社を後にし、再び散歩道を歩き出した。秋の風が彼の髪を揺らし、周囲の景色が一層美しく感じられる。これからの自分の人生を、一歩ずつ踏み出して行くために。


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