「灯台の向こうに」
薄暗い病室で目を覚ましたとき、リナは最初に自分の体に包まれている無数のチューブに気づいた。身体は重く、まるで夢の中にいるかのような感覚だった。しかし、彼女はすぐにそれが現実であることを理解した。病院の白い天井を見つめながら、彼女は過去の記憶を掘り起こそうとしたが、頭の中は霧に包まれたようで何も思い出せなかった。
病室の壁は冷たく、どんよりとした沈黙が漂っていた。でも、その壁の一部分に目を奪われた。透明な壁。どこか奇妙に感じたが、不思議と安心感を覚えた。外の世界がそこに映し出されているのだろうか。周囲の音も薄れていき、彼女はじっとその壁を見つめていた。
突然、視界が開けた。波の音が耳に入ってきた。透明な壁を通して、暖かい日差しに照らされた海辺の灯台が見えた。その灯台は、茜色の空に映え、ゆったりとした波のリズムに合わせて揺れていた。遠くで小さな漁船が進んでいく様子が見え、彼女の心に静かな波紋を広げた。
「灯台…」
彼女は思わず口に出していた。何故か、その灯台に親しみを感じたのだ。懐かしさに似た感情が胸に広がった。その瞬間、透明な壁に触れたくなり、手を伸ばした。だが、壁はやはり冷たく、彼女の指先に触れた感触はまるで存在しないもののようだった。
「あなたはここにいるの?」
その声に驚いて振り向くと、白衣を着た看護師が立っていた。彼女は優しい笑顔を浮かべ、静かに頷いた。
「あなたが目を覚ましてくれるのを、ずっと待っていました。」
リナは思い出そうとしたが、記憶の底は深く、何も浮かんでこなかった。彼女は自分がここにいる理由を知りたいと願った。
「私の名前は…?」
「あなたの名前は、リナです。」
リナ。どこか懐かしさを感じる名前だった。それでも、彼女の脳裏には空白が広がるだけだった。彼女はもう一度外の灯台を映る透明な壁に目を凝らした。灯台の光は、まるで彼女を呼んでいるかのようだった。
「外に出たい。」リナは絞り出すように言った。
「今はまだ無理です。あなたの体が回復するまで、ここで静かに過ごす必要があります。」
「でも、あの灯台を見ていたい。」
看護師は優しく微笑み、頷いた。「大丈夫、あの灯台はいつでもあなたを見守っています。」
日が経つにつれ、リナは病室の透明な壁を通して灯台を見続けた。その風景が心の中の何かを思い出させているようだった。波の音や、風に乗った海の香りが時折病室に漂い、彼女を取り巻く現実感を与えてくれた。しかし、過去の記憶は依然として朧で、ただ灯台だけが彼女の心に留まった。
ある日、看護師が部屋に入ってくると、リナは彼女に言った。「私はあの灯台に行きたい。そして、私が誰なのか、何があったのかを知りたい。」
看護師は少し黙ってから返答した。「あなたの記憶が戻るまでの間、灯台を思い描いていてください。そのうち、すべてがはっきりしてくるでしょう。」
その言葉を信じることにしたリナ。彼女は毎日、その透明な壁を通して灯台を見つめ、波の音を聞きながら、心の中で少しずつ自分を取り戻していった。
日々の繰り返しのなかで、彼女は夢の中で灯台に立つ自分をイメージするようになった。海風が彼女の頬を撫で、彼女は自由に光を放つ灯台の光と一体となる感覚を楽しんだ。しかし、現実の自分は病室で動けずにいた。日が経つにつれ、リナは少しずつ痛みを感じなくなり、新しい光を見つめる余裕ができてきた。
ある晩、リナはいつものように透明な壁を通して灯台を見ていた。月明かりが静かに波を照らし、その様子を見ていると、ふと心の奥底に埋もれていた記憶のかけらが浮かび上がってきた。彼女は灯台の真下で笑顔の友人たちと過ごしていた瞬間を思い出した。
「私の家族は?」彼女は不安になって声を漏らした。
看護師はすぐに優しい声で応えた。「心配しないで、あなたの家族はずっとあなたを支えていますよ。」
その言葉が胸に染み込んだ瞬間、彼女は感じた。あの灯台は、自分の帰る場所であり、そして自分が誰かを思い出させてくれる場所でもあるのだと。そこに帰るためには、まず自分を取り戻すことが重要だった。
リナは再び、透明な壁越しに灯台を見つめ、自分を再構築する旅に出ることを決意した。彼女はゆっくりと、自分が誰であるのかを確かめる旅を始めた。病室の外に広がる希望に向けて、少しずつ手を伸ばした。