「霧の向こうにある景色」

短編小説
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「霧の向こうにある景色」

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「霧の向こうにある景色」

彼女の名は美咲。小さな村に住む彼女は、周囲を高い山々に囲まれた霧に包まれた村の一員だった。村は一年のほとんどが霧に覆われるため、外の世界へのアクセスは限られていた。しかし、美咲だけはその環境に不満を感じることはなかった。彼女には夢があり、その夢は山の頂に立つことだった。

毎日、仕事を終えると美咲は荷物を持って山へ向かった。登山道の脇には色とりどりの花が咲き、彼女の心を和ませた。太陽が出ている日には、少しずつ山の頂へ近づいている実感を得られるのだ。しかし、雲の流れる速度、そしてそれに伴う霧の変わりやすさが、彼女の夢に影を落としていた。

ある日の午後、いつものように登山を重ねていると、美咲は視界が一瞬にして消えゆくのを感じた。その瞬間、彼女は霧の中に飲み込まれた。その霧は冷たく、肌にしっとりと触れる。美咲は心細くなりながらも、前進を続けた。黙々と進むうちに、彼女はふとした瞬間、耳元で誰かの声を聞いた。

「ここにいるのか?」

それは不思議な響きを持った声だった。振り返っても誰も見当たらない。驚きながらも、美咲は思い出した。村に伝わる言い伝え。山の頂には、人の姿をした霧の精が住んでいて、時には村の人々に語りかけてくるという。その言葉を無視せず、彼女は一歩踏み込むことにした。

「私は美咲です。私は山の頂を目指しているの」

美咲の声は霧に吸い込まれるかのように消えていった。しばらくの静寂が続いた後、再び声が響いた。

「山の頂には美しい景色が広がる。しかし、それは自分の心の中にあるものでもある」

霧の中で、彼女は不安に駆られた。「自分の心の中にある景色」とは、何を意味しているのか。村人たちが口にする「霧の精」の存在を心から信じたことがなかった彼女は、どうしてもその言葉をつかむことができなかった。

美咲は再び歩き続けた。霧の中を進むうちに、彼女は心の中に小さな灯火がともるのを感じた。それは、これまで夢見ていた山の頂のイメージ——さわやかな風と流れる雲、一面に広がる緑の丘、そして彼女の背後には村がささやかに広がる光景だった。

やがて、彼女は思った。「もしかしたら、自分が山の頂を目指す理由は、そこにあるではないか」と。美咲は頂上から村が見えると信じていたのだが、実は彼女の心の中にこそ、本当に見たい景色があったのだ。彼女は未だ見ぬ自分の未来、夢の形、そしてそれを支える彼女自身の存在に気付いてしまった。

再び声がした。「行き続けなさい。そこにあなた自身が待っている」

美咲は指先から得た温もりを感じながら、次の一歩を踏み出した。霧の向こうに見える年輪のような道を登って行き、心の中で明るいものが膨らんでいくのを感じた。

その時、霧が少し晴れ、少し先に薄明かりが見えた。頂上が近づいている。彼女の心臓は高鳴った。村を越え、流れる雲の向こう側へと、もうすぐたどり着くのだ。

山の頂に立つと、そこには広大な景色が広がっていた。霧に包まれた村が小さく見え、彼女が愛してやまないその村が、今一度、彼女の心に映し出された。自分の目で見つめるその風景は、彼女に深い安らぎを与えてくれた。

その瞬間、美咲は卓上の優しい風を感じ、心の中から光が満ちてくるのを実感した。彼女は一人の登山者ではなく、村の一部として生きる道を選んだのだ。その選択が、霧の精の伝えた真実だったのだと気づいた。

流れる雲は、彼女の心に新たな勇気を与え、再び自分の村へと向かう道を示していた。美咲は微笑みながら、寒気とともに感じた温もりを一生忘れないと心に誓った。山の頂で得た景色は、彼女の内なる道しるべとなり、大切な村の中でさらに深まっていくのだった。


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